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信長の野望

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原画を担当したNorth WindがPS2に移植されました。
▽North Wind ノース・ウィンド ~永遠の約束~



■サントラも発売されています。
▽North Wind Complete Tracks

Manackさんの音楽がすばらしいのです。


■さらに原画集みたいなのも出ていたりして。
ぼくのはともかく、とりしもさんの絵は楽しいですよ〜


■しとねさんの単行本もご贔屓に。
▽弩月万罪TYPE-MOONゲームコミック作品集

▽CYNTHIA THE MISSION (1)





■お仕事情報
原画担当の『姫さはプリンセス』が6/19に発売です
  もうマスターアップしたので、プレス工場が爆発したり運送トラックが高速道路から落ちたりしない限り、出ます。
「ぜったい☆絶対領域」に出演しました?
▽『PC-Angel』誌でめがねコラム連載中です。




■レイプについて考察するための予備知識−男からの発言
 『レイプ・男からの発言』(ちくま文庫)について。20年前の本なので少々古いけれども、類書がない以上、レイプについて考えようと思ったら、必読だと思う。
 レイプ被害者の証言や女性の立場からの発言はたくさんあるけれども、レイプについての男の側からの発言は、ほとんどない。事例毎のコメントはともかく、一般的な観点からの発言は滅多に見ない。この本は、そういった稀な発言をインタビューという形で収集しているだけでも意味があるように思う。インタビューの対象はアメリカ人だが、現代日本の感覚と大差ないように見える(レイプに対する「感じ方」が男性にとって普遍的なのか、あるいは単に日本がアメリカナイズドされているだけなのかは分からない)。
 ともかく、レイプに対する男の側からの「感じ方」のバリエーションが、男のセクシュアリティとは何かを考える上で、いろいろなヒントを与えてくれる。
 その一方で、個々の発言に対する解釈を施しているフェミニストの薄っぺらさが悲しい。男のセクシュアリティに迫る素振りすらなく、単なる指弾に終始している。教条主義とはこういうものかということを、まざまざと見せつけてくれる。筆者による巻頭の「序論」にも言えることではあるが、あまりの「キレイゴト」は、<物語>としてはありえるかもしれないが、そこから説得力は生じない。キレイゴトの論理よりも、個々の男たちの泥臭い発言の方が圧倒的に迫力を持っている。軸足をここに置けないものだろうか。
 そういえばこの本の編集者が藤本由香里。なぜか去年京都でお話をする機会があって、メガネ関係ではおもしろい話をたくさん聞いたけど、さすがにこの本の話はしなかった。機会があったら、またいろいろ聞いてみたいところ。(7/2)

■信長の野望、最新作
やっときた! 天道! 4年ぶりの本家「信長の野望」最新作、9/4発売。今から楽しみで仕方がない。今度はパッチなしで、一発でお願いします>koeiさま。
 今作もおそらく超スピードクリアに挑戦することになると思いますが、なんだか仕事が激忙しいので、プレイする時間を確保できるかどうか。ちなみに『三国志11』もたぶん日本最速でクリアしているけれども、レポート記事が書けていないんだよなあ。
 信長というと、『戦国BASARA』がなんだかおもしろかった。やっぱり信長が最高。信長に天下を取らせてやれば、きっとインド洋でエリザベス女王の艦隊との激突が起こっていたに違いないし、日本の資本主義化は200年早まっていたと思うのであった。(7/1)

■レイプについて考察するための予備知識−御成敗式目
 日本において、強姦は犯罪としてどのように扱われていたのか。1232年に制定された御成敗式目の第34条には、こう書いてある(原文は漢文)。
他人の妻を密懐する罪科の事
右、強姦、和姦を論ぜず、人の妻を懐抱するの輩、所領半分を召され出仕を罷めらるべし。所帯なくば遠流に処すべし。女の所領同じく之を召さるべし。所領なくば又之を配流せらるべき也。
次に、道路の辻に女を捕う事、御家人に於ては百箇日の間出仕を止むべし。郎従以下に至りては、大将家の御時の例に任せ、片方の鬢髪を剃除すべき也。但し、法師の罪科に於ては、其の時に当たりて斟酌せらるべし。
 「道路の辻に女を捕う事」が強姦に当たるだろう。百日の出仕禁止はともかく、髪の毛の半分を剃るというのがどの程度の刑罰なのか、いまいち分からない。
 ところで、「女を捕う事」は、より正確には「強姦」と言うよりは「拉致」と言うべきかもしれない。フランスの強姦の歴史を研究した『強姦の歴史』に書かれているところでは、フランス革命以前では「強姦」が犯罪として認知されず、「拉致」に至って初めて犯罪と認知されていた。それは「強姦」が強姦被害者に対する犯罪ではなく、父や夫の所有物であった「財産としての女」を盗む行為であり、男性に対する犯罪であったことを意味する。この事情は御成敗式目でも同じように見える。第34条では、まず「人の妻を懐抱する」ことが犯罪とされているが、これは女を男の所有物と見なしていることを意味するだろう。他人の私有財産である「妻」を盗んだことが問題になっているだけで、女に対する犯罪として34条が設定されているわけではない。とすれば、「女を捕う事」も女に対する犯罪ではなく、女の所有者の財産権に対する侵犯を意味していると捉えるべきだろう。したがって、「強姦」と言うよりは「拉致」と言った方がよさそうだ。
 女を所有物として構成する御成敗式目の精神は、明治の「姦通罪」まで一貫しているように見える。その一貫性は、おそらく「家制度」の一貫性と関係している。強姦が女性個人に対する犯罪として認識されるのは、家制度が廃止されて性が個人化する1947年以降のことだろう。
 ところで、鎌倉以後の強姦は家制度フレームで理解できそうだが、いろいろ手近なものを調べた限りでは、平安時代以前に日本で強姦が問題化している様子はない。探せば『古事記』に描かれた様々な結婚形態から強姦らしきものを抽出できるが、ギリシア神話のゼウス神のようなムチャクチャな強姦三昧はない。
 強姦が問題化されない理由の一つは、おそらく、強姦を強姦として認識するフレーム自体が存在しなかったことだろう。そもそも男が奴隷となることが当たり前の世界では、強姦が問題化されないのは当然のように思える。
 もう一つの理由として、婚姻形態が単婚(一夫多妻制や一夫一婦制)ではなく対偶婚(多夫多婦制)だったことが挙げられるかもしれない。高群逸枝の世界では、男女平等故に、強姦が成立しない可能性がある。
 とりあえず、そもそも強姦が強姦として認識されるためには非常に多くの前提が必要になってくることは確かで、特に「家族制度」のあり方は認識のフレームを固定する際の決定的な要因のように思える。同じように、おそらく「ポルノグラフィー」の位置も、「家族制度」のあり方によって規定されている。(6/27)

■レイプについて考察するための予備知識−日本の伝統的性風俗(2)
 赤松啓介の話の続き。赤松が採取した民俗資料は大正時代から昭和初期にかけてのもので、前近代から近代へと移行する過渡期の形態が興味深い。前近代の価値観と近代の価値観が衝突する最前線の姿を垣間見ることができる。
 たとえば、大正時代になってもムラの中下層には「夜這い」という前近代的な風俗が残るが、上層の地主たちは娘を都会の女学校に送り出すようになっている。地主には、娘を夜這い習俗から隔離し、貞操を守らせて「処女を高く売る」という算段がある。娘のほうは、女学校で教育勅語体制の良妻賢母主義教育を受け、近代的な貞操観念を身につける。しかし赤松によれば、そういう近代的価値観を身につけた娘たちが、前近代的なムラの若衆に狙われて強姦される。
ところが夏休み、春休みなどに(地主の娘が)帰郷、親類の吉凶などで外出。女中連れでヒルヒナカと安心しているとムラの若衆たちに襲われて女中もろとも輪姦。親たちが強姦で告発といっても、それは恥の上塗りだと親類やムラの顔役たちが説得、たいていウヤムヤになる。平素、権高で娘の処女を高く売りたい連中ほどやられている。
赤松啓介vs上野千鶴子『猥談−近代日本の下半身』現代書館、80頁
 どこまで信用していいか分からない話ではあるが、階層格差と価値観の衝突という点において興味深い。ムラを捨てる形で生じた近代的価値観は、結局はムラの論理(前近代の共同体規制)によって呑み込まれてしまう。赤松はさらにこう述べている。
上層の娘や嫁どもの貞操が厳守されたかというと、なかにははなはだいかがわしいのもあった。(中略)娘や女たちを数人が協同してカツギ、輪姦というものも多発した。オヤジは強姦で告発するというが、いつのまにか立ち消え、キズモノになった娘や女は格下げして結婚した。夫人やオイエさんたちをねらうのは、他出して夜遅く帰るのを狙って強姦した。これもほとんど和姦みたいなもので、立ち消えてしまう。女たちの会合では、うちもやられた。会長さんもやられたんか、と川の長い土堤を夜、帰っていって強姦されている。(186頁)
 近代的な価値観からは、とうていありえない話だ。
 また、「共同体規制」というものの影響についても考えさせられる。赤松は「女中」や「子守」という形で共同体の外部から働きに来ている女性に対する強姦について、「十歳ぐらいの子守が強姦されて負傷、その治療費をどこが払うか。つまりムラの若衆仲間か、ムラ(地下の協議機関)が払うかでもめた」(132頁)事例について述べ、ムラの権力外に置かれた女性がムラ内の女性とは別の扱いを受ける状態を報告している。他、たとえば共同体の規制と保護がない工場のような場所では、女工が10歳くらいで輪姦されると言っている(161頁)。前近代の性規範を考える場合、「共同体規制」と「階層格差」について念頭に置いておかないと、的を外してしまう。
 共同体規制が働く場所では、近代的価値観からは強姦に見える事例も、共同体の論理で問題なく吸収してしまう。前近代的共同体規制が無効化する場面において、初めて強姦が強姦として表面化する。逆に言えば、共同体規制が敷かれている前近代的なムラにおいて強姦が強姦でなかったように、「陵辱ゲーム」の内部において前近代的な共同体規制が敷かれているとき、強姦は強姦として現出しない。そこには、目の前の事実を強姦として認識する枠組み自体が存在しない。(6/26)

■レイプについて考察するための予備知識−日本の伝統的性風俗(1)
 現在の日本における公的な性倫理は、近代的な人間観を基礎に置いている。性倫理の近代的思考枠組みについては、特に「子ども」の位置づけに着目して書いた「子どもとセックスと法」をご参照いただければと思う。
 しかし現実の日本の性倫理は、近代化されていないのではないかという疑いがある。援助交際にせよ、教師の猥褻行為にせよ、陵辱エロゲにせよ、前近代的な性規範がそのまま生き残っているかのような様相を示している。前近代の性規範が良いことか悪いことかは別として、日本の性風俗の事実がどうであったか、把握しておく必要はある。庶民の性風俗に関して参考になるのは民俗学だが、中でも赤松啓介は押さえておかないと話にならない。赤松は著書の中で様々な記録を書き残している。
昭和26年、瀬戸内海の坊勢島に赴任した駐在所の巡査の報告書というのがある。その巡査は、女房を連れて赴任したわけだが、赴任した夜に夜這いに見舞われることになる。どないやあ、遊ぼうか。と若衆が娘のところにやってきて、巡査に怒鳴り返されている。当時の漁村では、夏になると女は乳房丸出しで、下の腰巻きも半分開いているようなありさまで、家柄の良い家の女房でも見られたものでなかった。いくらでも軽犯罪や強姦罪で引っ張ることができると巡査は嘆いているのである。
赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』ちくま学芸文庫版、37頁
 近代的な性規範を持っている巡査に対し、漁村の人々は前近代的な性規範を持っている。巡査からすれば「強姦」に見える行為でも、漁村の人々としては当たり前の行為に過ぎず、罪悪感は微塵もない。そして重要なことは、権力を持っているのは巡査のほうであって、巡査が本気になれば、前近代の人々は悪いことをしたつもりがなくても簡単に逮捕されてしまう、ということだ。
 赤松は、他にも清水寺周辺で行われる乱交について述べ、周辺では「娘かつぎ」という強姦・輪姦行為が行われていたことを報告している。近代的な感覚から言えば当然悪いことに決まっているのに、前近代においてはそもそもそれが悪という意識がまったくない(同159頁)。良いことか悪いことかは別に考える必要があるが、事実として、性規範の近代化の影響について考える必要はあるだろう。(6/25)

■レイプについて考察するための予備知識−地下鉄御堂筋事件
 1988年11月、大阪市営地下鉄御堂筋線で、強姦事件が起こる。(ちなみに、御堂筋線の事件というと、甲南大生による2008年の痴漢冤罪事件が印象に残っているが、それとは別)
 1988年11月、御堂筋線の電車内で、痴漢行為をしている二人組の男性を、ある女性が注意した。しかし二人組はその女性を二時間に渡って無理矢理連れ回し、終着駅で下ろし、建築現場で強姦した。という事件だ。(いまのところ、『レイプレイ』に関して、88年の地下鉄御堂筋強姦事件を引き合いに出している規制推進派は見たことがないけれど、その程度の知識なのだろうか)
 御堂筋事件が『レイプレイ』と似ているのが偶然なのかモデルになっているのかは分からないけれど、とにかく気持ち悪いし、悲しいし、底知れぬ怒りが湧いてくる事件だ。ぼくがこの事件の裁判員になったら、法律的に許される最大限の罰を与えるよう主張するだろう。きっと『レイプレイ』に怒っている人も、同じように怒っているのだろう。
 その怒りを回避して「ゾーニング」の議論に終始しようとしている人々が、だんだん薄っぺらく見えるようになってきた。思想・表現の自由は確かに大切ではあるが、この人として当然の怒りを呑み込まずに形式論理に終始しているだけだと、説得力は生じないように思う。

 佐藤亜紀日記6.22は、なかなか興味深い。「陵辱ゲーム愛好者」が非難されている以上に、おそらく「喫煙者」への風当たりは強い。「陵辱ゲーム愛好者」は、実は面と向かって非難されることはあまりないし、日常的に悪意を向けられるわけではない。一方、「喫煙者」への弾圧はもはや日常的になっているし、法的規制も着々と進行している。そして非喫煙者は、誰も喫煙者に対して同情しない。喫煙者が弾圧されることを、当たり前と思っている。もちろん、ぼくもタバコなんて吸わない。百害あって一利なしと思っているから。
 だから、6.23の記述は、「タバコ」を「陵辱ゲーム」に置き換えて語ってみたわけなんでしょう、いや、分かりやすい。あなたの喫煙権を全力で守るから、代わりに陵辱エロゲプレイ権も守って欲しい、と言ってみたいところ。しかし逆に「喫煙権の制限くらい甘受するから陵辱エロゲも規制すべき」と言われたら、もはやミもフタもない。(6/23)

■レイプについて考察するための予備知識−イギリスのレイプについて
 本棚の奥から引っ張り出した精神分析系雑誌『imago』の1993年4月号−特集「レイプ」を読んでいたら、イギリスのレイプについての叙述が出てきた。後に『世界犯罪史』として訳出された本の第7章にあたるようだ。
 それによると、イギリスでもレイプが犯罪として認知され始めたのは19世紀前半らしい。ビクトリア朝の影響を主張する著者の分析はいい加減なように思うが、個々の犯罪事例自体は『ニューゲート監獄暦報』から報告されているので信頼に足るだろうと思う。19世紀前半にレイプが犯罪として認知されるというタイミングはフランスでの変化と機を一にしているので、この傾向は近代性の問題として一般化してもよさそうだ。
 ところで、精神分析系のレイプ分析は、クソの役にも立たなさそうだ。特にユング派の精神分析は、ゴミだ。(6/22)

■レイプについて考察するための予備知識−上野千鶴子について
 陵辱ゲーム規制問題に関して、フェミニズムを目の敵にする人々が多いようだけど、ひょっとしたら彼女たちは潜在的な同志であるかもしれない。少なくとも上野千鶴子の本は読んでおいて損はない。たとえば、上野は次のように言っている。
 レイプの謎は、レイピストの謎である。この謎に答えない研究は、何百ページついやしても、まったく意味がない。それどころか男がいっこうにこの「悪い」ことをやめようとしないありさまを見て、法律の強化や治安の維持を求める人々もあらわれる。その結果は皮肉だ。「夜を女に返せ」(アメリカではレイプの危険のため、女が夜道を一人歩きすることもできない)というフェミニストの要求は、しばしば治安警察力の強化を要求する結果になる。ポルノに反対する女たちの運動は、取り締まりの強化と検閲制度の導入を招きかねない。フェミニストのポルノ反対と「表現・出版の自由」とは、心ならずも敵対関係に陥ってしまう。
 どうしてこんなディレンマに陥るのか? かんたんだ。男の性の謎を解かずに、力の論理でそれをおさえつけようとするからだ。それも自分たちの力でなく、国家と権力の力を借りて。
上野千鶴子『発情装置』筑摩書房、70頁
 残念ながらこの後に続く分析は「男の性の謎」に迫っているような気はしないけれども、問題提起は適切だと思う。
 フェミニストが潜在的な同志かもしれないというのは、フェミニズムが本来は「マイノリティの権利」についての理論だからだ。上野は、「女」をマイノリティとして定位するだけではなく、男の中でも「次男三男」というマイノリティについて言及している。家父長制においては、権力を持っているのは男全般ではなく、「長男」に限られていた。家父長制下において、次男以下は結婚もできず、タコ部屋で雑魚寝させられ、単なる労働力として数えられるだけの存在だった。つまり次男以下は家父長制においては「人格性」を認められない、単なる「モノ」に過ぎない。それにも関わらず、次男以下の「男の権利」を回復しようとしてくれる人はいなかった。上野が優れているのは、女だけでなく、次男三男もマイノリティとして視野に入っている点だ。
 そして、現代におけるマイノリティは、「非モテ」だ。非モテ(あるいはキモメン)がどれくらいマイノリティかは、本田透の呪詛でも聞けばよかろう。いちおう付言しておけば、この場合の「マイノリティ」とは数の多少が問題になっているわけではない。現代社会における「一夫一婦制」とそれを基礎とした「資本主義」システムにおいて、「非モテ」が必然的に権力から周辺化される事態を指して「マイノリティ」と呼ぶ。(本田透はこのような事態を「恋愛資本主義」と呼んでいるが、認識は偏っているように見える。おそらく要点は、高度経済成長後の家族構成の変化にある。「核家族化」による長男の位置の地殻変動は視野に入れないとお話にならないように思う)。
 マイノリティであると自覚する女性が、自らの復権のために声を上げること自体は、よかろう。しかしおそらく現在、その声は権力者の方ではなく、男の中でもマイノリティのほうに向けられている。弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く。その音が響き渡れば、ブルースは加速してゆく。本来なら、フェミニストの呪詛は、幸せな一夫一婦制の家庭を築いている人々に向けられなくてはならない。幸せな一夫一婦制の形態こそが、女性をマイノリティにおいやっている最大の要因のはずだ。そしてもしも一夫一婦制の下で何の不自由もなく幸せな家庭を築いている体制側の人間が「陵辱ゲーム愛好者」を叩いているとしたら、なんとグロテスクな「強者の傲慢」だろうか。こういった「強者の傲慢」が優生学を招き寄せ、「非モテ」たちはますます去勢されていくのだろう。(6/21)



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