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■ゲーム作ってます
 放置気味ですが。ゲーム作ってて忙しいです。がんばってます。(5/7)

■コミケは申し込んでいません
 コミケでは、ぼくは企業ブースにいる可能性が高いです。
 『STEP×STEADY』オフィシャル通販も始まりました。よろしくですー。(7/5)

■有機体的キャラクター構成論のためのメモ
 ――知恵と節制(分別)と勇気と正義と敬虔と、これらのものは、名前は五つあるけれども、指し示すものは一つなのであるか。それとも、これらひとつひとつの名前のもとには、それぞれ独自のあり方をもった何かが実際に対応していて、それぞれ自己自身の機能をもち、そのひとつは他と同じ性格のものではないのであるか――。
 これについて、あなたの主張されるところはこうでした。
 ――これらはけっして一つのものにつけられた名前ではない、これらの名前のひとつひとつは、それぞれ独自のものに対応してつけられているものである。ただし、これらはいずれも徳の部分をなすものであって、その部分という意味は、たとえば金塊の部分のように、部分相互、および部分と全体とが類似しているというものではなく、むしろ顔の諸部分のように、部分と全体、および部分相互が似てはいなくて、それぞれが固有の機能をもつものである――。
【プラトン『プロタゴラス』岩波文庫版124頁】
 最近プラトンを読み返していたところ、有機体的発想がそこかしこに見られたのがおもしろかった。『国家』の有機体説は押さえていたが、『プロタゴラス』の議論は押さえていなかったので、メモしておく。
 プロタゴラスが言うところの「知恵/分別/勇気/正義/敬虔」の5つの徳は、たとえば『コンバトラーV』の各キャラに美徳として割り振られている。そして5人の力を一つにあわせて大きな力を発揮するのは、有機体論的に示唆深い。『コンバトラーV』('76)、『ゴワッパー5』('76)、『ゴライオン』('81)に共通するのは、チビで頭脳明晰なメガネくんがメンバーの中にいることだ。このあたり、『ガッチャマン』('72)や『ゴレンジャー』('75)のキャラ配置よりも、より洗練されているように見える。
 日本のロボットアニメで有機体的キャラクター配置が最も先鋭的に見られるのは1972年〜1980年代半ばまで。つまり高度経済成長終了直後だ。高度経済成長中は、アトムのような自律するマシン、鉄人28号やマジンガーのような決戦兵器としてのロボットが登場したが、キャラクターの有機体的結合は見られない。合体メカの登場とキャラの有機体的配置の展開は、軌を一にしている。
 一方、ギャルゲーに有機体的キャラ配置が見られるようになるのは1990年代半ばからで(典型的なのは『サクラ大戦』)、眼鏡っ娘の浮上と軌を一にしている。
 有機体的社会観自体は、資本主義が変質して個人主義的市民社会観が説得力を失いつつあった1870年頃に説得力を持ち始め(スペンサー、キリスト教的共同体論)、1930年代の優生学とファシズムによって極まり、1945年に説得力を失った後、1960年代にシステム論(パーソンズ、ルーマン)のように形を変えて復権してきている。これらの西欧思想史の流れと、高度経済成長後の日本ロボットアニメで有機体論的な発想が説得力を持ったことに、何か共通する背景があるのかどうか。まずはプラトンを一通り読んでおこうというところ。(7/22)

■「ほんとうのわたし」イデオロギー理解のためのメモ
 転叫院のメモに対するメモ。
 「対象化する自己と対象化される自己とを分離して語る」という詐術を開発したのは、おそらくカント。『純粋理性批判』は、実に素晴らしい「本当の自分」賛美の書だ。このような発想は、ギリシア古典にも、経験論のロックやヒュームにも、合理論のデカルトやライプニッツにもなかった。「ほんとうのわたし」イデオロギーは、カントからフィヒテ、シェリングへと連なるドイツ観念論の著しい特徴だ。そしてカントがすごいのは、「対象化する自己と対象化される自己とを分離」することがフィクションであり、フィクション故に力を持つと言い切っている点だ。だから、ドイツ観念論を単なる不可知論と同一視することは基本的に誤っている。
 そして、「「ありのままのあなた」「本当の自分」という社会的妄想を弱体化させること」は、不可能だ。なぜなら、その観念は近現代の法体系と経済体系と自然科学体系の基底を構成する最重要のフィクションだからだ。「A=A」という論理式が「Law of Identity」(自同律)と名付けられていることは、近現代社会の原則を考える上で、この上なく重要だ。「差異(difference)」という概念の凄みは、この「A=A」という論理式に頼らなくとも世界を構成することが可能になった点にある。
 ところで「ほんとうのわたし」という概念は、「固有名詞」や「名付け」という概念と密接に関わっている。人が固有名詞を与えられ、「一」と「多」と「全」に関する人間理性の働きが自分自身を対象としたとき、「ほんとうのわたし」が必然的に産出される。もはや誤配するしかない。
 そして日本において「ほんとうのわたし」が説得力を持ったのは、おそらく高度経済成長末期の1960年代後半だろう。現代思想のいくつかはアイデンティティという概念が1980年代に葬られたと見ているようだが、おそらく間違いだ。量的な拡大および拡散を質的な変化と勘違いしただけだろう。(7/23)

■「ほんとうのわたし」と「有機体的キャラ配置」を繋ぐもの
 カントが定式化した「ほんとうのわたし」と、1870年以降に説得力を持ちはじめる「有機体的人格結合」の距離は、そんなに遠くはない。おそらくそれを先駆的に示したのが、一方ではアダム・スミスの「分業」概念であり、一方ではルソーの「一般意志」概念だ。スミスは勉強中なので、まずはルソーについて。ルソーは『社会契約論』の中で以下のように述べている。
 もし、国家または都市[国家]が精神的人格にほかならず、その生命が構成員の結合のうちに成りたつとすれば、また、国家の配慮のうちで一番大切なものは、自己保存の配慮であるとすれば、国家は各部分を、全体にとって最も好都合なように動かし、配置するために、普遍的な、また強制的な力をもたなければならない。ちょうど、自然が各々の人間に、その手足のすべてにたいする絶対的な力を与えているように、社会契約も、政治体に、その全構成員にたいする絶対的な力を与えるのである。そしてこの力こそ、一般意志によって指導される場合、すでにいったように、主権と名づけられるところのものなのである。
 しかし、われわれは、この公の人格のほかに、これを構成している私人たちを考えねばならない。そして後者の生命と自由とは、本来、前者とは独立のものである。そこで、市民たちと主権者との、それぞれの権利を区別し、また市民たちが臣民として果さねばならない義務を、人間としてうくべき自然権から、十分に区別することが問題となる。
【ルソー『社会契約論』岩波文庫版49頁】

 しかしながら、政府という団体が、国家という団体から区別されるところの一つの存在、つまり現実の一つの生命をもつためには、また、政府のすべての構成員が一致して行動し、それがつくられた目的に応じうるためには、特殊な「自我」、その構成員に共通の感受性、自己保存に向おうとする一つの力、一つの固有の意志、が政府に必要だ。
【同88-89頁】
(1)まずルソーにおいては、人間は「臣民/市民」に分離される。それは「客体と義務/主体と権利」の分離を意味する。転叫院が言うところの「対象化する自己と対象化される自己とを分離して語るという詐術」の近代的根拠はこのあたりにある。
(2)そしてまた、多数の「臣民」が構成した「国家」は「一つの生命」と「自我」と「一般意志」及び「主権」を持つが、それはちょうど「各々の人間」が「手足」にたいして持つ力と同じとされる。
(3)この2つの論理により、各個人は独立した人格を保ちつつ、さらに上位の人格の一部分として位置付くことが可能となる。つまり、「ほんとうのわたし」と「有機体的キャラ配置」の論理が両立する。
 ただしルソーは各個人の「個性」に対して配慮しているようには見えない。ルソーの社会契約は各個人を一般意志の下で平等に扱う。各個人の特性と能力による「分業」の体制が整ったところに「有機体的キャラ配置」が成立するわけだが、これはカントとヘーゲルを経由して確立するように見える。(7/24)

■「ほんとうのわたし」から「有機体的キャラ配置」への転換原理
 「対象化する自己/対象化される自己」と聞いた場合、多少なりとも哲学史を囓っている者ならば即座にヘーゲルの「即自/対自」という概念を想起してもよい。そしてヘーゲルの諸説の中に、「ほんとうのわたし」を「有機体的キャラ配置」に組み込むプロセスが鮮やかに描かれている。
 ヘーゲルは『法の哲学』で、まず以下のように述べている。
 こどもは即自的におとなであり、やっと即自的に理性をもつだけであり、理性と自由のやっと可能性だけであって、だからただ概念からいって自由であるにすぎない。
 ところでそのようにやっと即自的に有るだけのものは、それの現実性において有るのではない。即自的に理性的である人間は、対自的にもまたそうなるために、自分の外へ出てゆくことにより、だが同様にまた自分のなかへ入って自分を形成陶冶してゆくことにより、苦労して自己自身を生産することをやりぬかなくてはならない。
【ヘーゲル『法の哲学』中公クラシック版T90頁】
 この時点でヘーゲルは「自己実現」という言葉を使用せずに「自己自身を生産する」という客観的(つまり「自己を対象化」したよう)な言い回しをしているが、100年後にはオルテガが同様の人間成長のプロセスを「自己実現」として描写することになるだろう。
 しかしこうして自己を生産し、つまり「ほんとうのわたし」になっただけでは人間生活は完成しない。ヘーゲルは続けて「家族」について以下のように述べる。
 家族は精神の直接的実体性として、精神の感ぜられる一体性、すわなち愛をおのれの規定としている。したがって家族的心術とは、精神の個体性の自己意識を、即自かつ対自的に存在する本質性としてのこの一体性においてもつことによって、そのなかで一個独立の人格としてではなく成員として存在することである。【同U34頁】

 婚姻の主観的出発点としてしばしば現れうるのは、この関係に入る両人格の特殊な愛着、あるいは両親などによるあらかじめの配慮と計らいであるが、しかし客観的出発点は、両人格の自由な同意、詳しくいえば、自分たちの自然的で個別的な人格性を前述の一体性において放棄して一人格を成そうとすることの同意である。 【同U40-41頁】
 そしてヘーゲルは、婚姻を「個別性において独立している人格性という契約の立場から出発しながら、その結果この立場を揚棄するもの」(同U44頁)と規定する。「即時的」な存在だった者が、最終的に「一個独立の人格としてではなく」、より高次の人格へと統合されるプロセスが描写されている。
 ここでヘーゲルは、1970年代以降の合体ロボットアニメのエッセンスを実にうまく言い当てている。ヘーゲルの以下の要約は見事だ。
 この一体性は、自然的で個別的な人格性という点からすれば一つの自己制限であるが、しかし彼らはこの一体性において彼らの実体的自己意識を獲得するのであるから、まさにこのゆえにこの一体性は彼らの解放である。 【同U40-41頁】

■「対象化する自己/対象化される自己」について
 引き続きヘーゲルの議論。ヘーゲルは、「人格」の必要条件を「主体が自分を対象として知るということ」と規定する。
 人格性がはじまるのは、主体がたんに自己意識一般を、具体的なものとしての自分、なんらかの仕方で規定されたものとしての自分、についてもつときではない。むしろ、あらゆる具体的な制限されたあり方と通用性が否定されていて通用しないところの、完全に抽象的な自我としての自分について、主体が自己意識をもつかぎりにおいて、そこにはじめて人格性がはじまる。
 それゆえ、人格性のうちにふくまれていることは、主体が自分を対象として知るということ、だがこの対象は思惟によって単純な無限性へ高められ、このことによって純粋に自己同一的な対象であるということ、主体は自分をこのような対象として知るということである。
 諸個人と諸民族は、この純粋な思惟と、自分についての知にまで、まだ達していないかぎりは、まだどんな人格性をももっていない。
【ヘーゲル『法の哲学』中公クラシック版T142-143頁】
 そして「主体が自分を対象として知るということ」は、単に認識論の次元の問題ではなく、実際に市民社会を成立させるための、つまりは資本主義を動かすための基本的な条件として理解される。すなわち、以下のように議論は続く。
 人格は自分を自分と区別することによって他の人格にたいしてふるまう。しかもどちらの人格もただ自分のものの所有者としてのみ、たがいにとって現存在をもっている。それぞれに人格の即自的に有る同一性は、一方の人格の自分のもの、すなわち所有が、他方の人格のそれのなかへ、共通の意志でもって、かつそれぞれの人格の権利を保持したまま、移り込むことによって現存在を得る。――これが契約である。
 (……)ただ人格性だけが物件にたいする権利を与えるのであって、それゆえ人格的な権利は本質的に物件法であるということ。――そしてこの物件とは、自由にとっておよそ外的なものとしての一般的な意味での物件であり、これには私の肉体、私の生命もまた属する。この物件法は人格性としての人格性の権利である。【同149-150頁】
 「自分を自分と区別すること」が「契約」を成り立たせるための基本的な条件であり、それはつまり市民社会を成立させるための必要条件であることを意味する。自分自身を対象化することは「現代」の問題ではなく、すぐれて「近代」の問題に属する。「権利」「自由」などの概念は、必然的に「自分を自分と区別すること」を要求する。だから繰り返すが、市民社会あるいは資本主義においては、「対象化する自己と対象化される自己とを分離して語るという詐術」は、必然だ。故に、本当に「「ありのままのあなた」「本当の自分」という社会的妄想を弱体化させること」を目論むのなら、問題が「現代社会」ではなく「近代社会」に由来していることを前提に、カントとヘーゲルを、特にその「人格」と「自由」の概念を破壊しなければならない。そしてその仕事を最初に行ったのがマルクスであり、言うまでもなく「所有」という概念が突破口となっている。きちんと勉強した現代思想の連中が最終的にマルクスに回帰していくのは、おそらくそういう事情による。(7/26)
■最高の人格について
 ヘーゲルが「ほんとうのわたし」から「有機体的人格結合」に至る過程を描いたことは、ぼくが発見したわけでもなんでもない。『精神現象学』にしろ『法哲学要綱』にしろ、ヘーゲルが精神発達を「個人→市民社会→国家」と描いたことは、ヘーゲル入門書に必ず書いてある基本事項だ。ヘーゲルは、真の自己実現は「国家」のレベルで実現すると言う。
国家は有機組織、すなわち理念がおのれの区別項へと展開したものである。だからこれらの区別された面はさまざまの権力、それらの職務と活動であり、これらによって普遍者は、絶えず必然的な仕方でおのれを生み出す(……)この一体性には、胃の腑とその他の身体的諸部分についての寓話がぴったりあてはまる。有機組織のすべての部分が同一性へ帰一することなく、一部分が独立したものとしてたてられるならば、全部が滅びざるをえないというのが、有機組織の本性である。たんなる術語や原則などは、有機組織として把握されなくてはならないところの国家を評価するのには、役に立たない。それは神の本性がもろもろの術語によっては把握されないのと同様であって、むしろ私は、神の生命をそれ自身のうちに直観しなければならないのである。
【ヘーゲル『法の哲学』中公クラシック版U252頁】
 国家有機体説は、古くは当然プラトン『国家』から見られる発想だが、近代では主に大陸における官房学に由来する。しかし官房学は現在では行政学の一部で過去の遺物として扱われるだけであり、日本語でその全体像を手っ取り早く理解できるようなテキストは見あたらない。「集合的人格」の発想の源を探る上で、あるいはヘーゲルの国家有機体説を解読するために、官房学は重要なジャンルだと直感するが、具体的なテキストを発見するのは骨が折れそうだ。いずれにせよ、国家有機体説は19世紀末から説得力を持ったことになっているが、カントやヘーゲルのテキストの中で直接的な記述を見いだすことは容易だ。
 国家有機体説は、日本にはスペンサーとシュタインによって持ち込まれたことになっている。が、おそらく説得力を持ったのはヘーゲル理解後のことだろう。人間が、より大きな人格へと包摂されることを望むのは、なにもカルト宗教に始まったことでも限ったことでもない。最も洗練された形で下位の諸人格を包摂する論理と理念を語っているのは、最高人格としての「国家」だ。
 そして一方で、こうした理論と理念は、高度経済成長後の合体ロボットアニメの諸形式と、バブル経済崩壊後のギャルゲー的集団人格の有り様について、大きな示唆を与える。(7/27)
■「現代」とは何か?について
 「現代思想」と呼ばれるものが持つ最大の問題は、その多くが「現代」についての規定を行えてない点にある。現代思想の手引き書などで、ニーチェやフロイトを現代の出発点に置くものをしばしば見かけるが、デタラメ言うのもいい加減にしてくれと思う。ニーチェやフロイトよりも、自然科学の展開のほうが遙かに強烈なインパクトを持ったのは明白だ。
 もし「近代」と異なった特徴を持つような、そして現在まで連なる何らかの歴史的なステージがあるのだとしたら、ぼくの歴史観では、それは19世紀後半、特に1860年〜1880年が画期となり、1920〜30年頃に一つの形を見る。一言で要約するなら、「近代」とは「個」の時代であり、「現代」とは「衆」あるいは「量」の時代だ。
 現代数学は、1874年カントールの集合論から始まり、ヒルベルトのプログラムを経て、ゲーデル不完全性定理(1931年)によって極大点を迎える。現代思想と呼ばれるいくつかの言説は、しばしば「不完全性定理」の趣旨を全く理解せずに引用して、失笑を買っている。
 物理学では、ニュートン古典力学とは異なる発想に基づく熱力学の領域を19世紀半ばから成熟させ、クラウジウスが1865年にエントロピー概念を提出する。現代思想と呼ばれるいくつかの言説は、しばしば「エントロピー」の趣旨を全く理解せずに引用して、失笑を買っている。熱力学は黒体輻射の問題から20世紀前半の量子力学へと展開する。
 化学の領域では、19世紀前半から「有機体」に関する研究が進み、1865年にはベンゼン環構造が発見される。現代思想と呼ばれるいくつかの言説は、しばしば「有機体」の趣旨を全く理解せずに引用して、失笑を買っている。おっと、巨大ロボットアニメや戦隊ヒーローものに有機体説を持ち込もうとしているぼくの論説も似たようなものか。
 これら自然科学の展開を強引にまとめると、知の対象を「個」に分解せず、「衆」を「衆」のまま操作する技術が確立する過程と言える。「近代」においては、知とは「分析」と「総合」の技術だった。ある対象をこれ以上は分割できない最小単位まで「分析」することが、操作の基本だった。が、「現代」の発想に「近代」と異なる特徴があるとすれば、知の対象から「個」を析出せず、「衆」のまま操作する点にある。
 「個」ではなく「衆」を「衆」のまま操作する技術は、自然科学だけではなく社会科学の分野にも及ぶ。その代表が社会学だ。「近代」においては、ロックにしろルソーにしろ、まずは「個」の分析から操作を開始して、総合へと至る。社会契約論はそういった分析的な知のあり方の見本みたいなものだ。しかし社会学は、「個」を析出せずに「衆」を操作する技術を目指す。19世紀末に発表されたデュルケム『自殺論』は、そういった「衆」を扱う知の見本みたいなものだが、そのような様式は1860年頃から「道徳統計」という形で集約されつつあった。国家有機体説も、同じく「個」を析出することなく、「衆」を「衆」のままに説明する論理だ。
 よって、たとえば法学の分野では、「個」の析出を前提として組み立てられる「自然法」の発想が退けられ、「衆」を操作する技術としての実定法が前面に出てくる。行政学の発展と「社会政策」の登場も、「衆」を「衆」のままで操作することを目指している。熱力学において個々の分子の動きが無秩序であっても全体としての熱量を操作することが可能であるように、社会学や法学は個々人の動きが無秩序であっても全体としての統治と操作を可能とするような知を目指す。フーコーが言うところの「規律=訓練」型の権力は「個」の制御を通じた全体の統治を目指すが、「牧人司祭」型の統治は、おそらく一人一人の制御に関心を持つというより、羊の群れをひとまとめに扱うように、「衆」を「衆」のまま操作することを目指すだろう。
 結論として、もしも「近代」とは異なる歴史的なステージがあって、それが現在までも続いているとして、それを「現代」と呼ぶのだとしたら、その特徴は「衆」とそれを操作する知と技術の体系にある。そして残念ながら、あらゆる領域で「衆」を扱う技術が発達していく中、「哲学」と呼ばれるジャンルだけは、その技術を手にしなかったように見える。だからおそらく、「現代」において意義ある業績は、哲学ではなく社会学から生まれることが多い。宮台真司が「現代」という言葉ではなく、慎重に「成熟した近代」という言葉を使用しているのは、おそらく思われている以上にモノゴトを深く考えている証拠だろう。(7/28)

■『バトルフィーバーJ』の成立条件
 おそらく、1870年前後は、自然科学の転換点であるだけでなく、「世界史」の転換点でもある。むしろ「世界史」の発生地点と言った方が事態を正確に把握するように思う。
 まずヨーロッパ。1870年に普仏戦争が発生し、ここから国民国家がスタートする。一般にはフランス革命後に国民国家が発明されたことになっているが、フランスに関しては第一帝政と第二帝政により国民国家の確立は遅れていた。フランスは普仏戦争の敗北により、国民教育制度の整備、象徴的なところでは国歌の再発見など、国民の創出へと向かう。おそらくフランス革命の意義は、このときに再定義された。一方ドイツは、1866年の普墺戦争で統一に向かう。1861年にはイタリアが統一されている。イギリスでは資本家と労働者の階級分化が統一的な国民の形成を妨げていたが、19世紀初頭からの一連の工場法の整備から1870年の初等教育の整備まで、国民国家の整備へと向かう。ヨーロッパの諸事象は、1848年の革命により封建遺制が破壊され、1870年頃に「近代」が完成したことを示す。
 アフリカ。19世紀後半には植民地分割が完了し、1880年頃から「再分割」に入る。ボーア戦争が典型的な「再分割」戦争になるが、これはフロンティアが消滅し、アフリカ全土が世界史に組み込まれたことを意味する。
 中東。1869年にスエズ運河が開通し、イギリスが実質支配する。1876年にはオスマン・トルコが「憲法」を制定し、世界史に組み込まれたことを自ら宣言する。
 アメリカ。1865年に南北戦争が決着し、封建的経済から資本主義経済への転換が決定的となる。そして重要なのが1869年の大陸横断鉄道開通であり、これによりアメリカから「フロンティア」が消えた。南米ではすでに先住民が大量虐殺されて世界史に組み込まれていたが、北米でも先住民が殺戮され、西部が消えることで、世界史が成立する。
 アジア。1868年の明治維新により、日本が世界史へと組み込まれる。1869年の大陸横断鉄道開通により、西からと東から太平洋が世界史により貫通される。1871年の岩倉使節団が太平洋をサンフランシスコに渡り、そこから大陸横断鉄道でフィラデルフィアへ出て、さらに大西洋を東に渡ってヨーロッパへと巡礼するのは、まさに世界史を遡行する旅だ。
 これら世界各地のさまざま指標は、世界全体が市場化したことを意味する。全世界の国民国家化が、世界史を成立させる。そしてそのことにより、世界全体を「有機体」として把握する様式が初めて可能となる。『バトルフィーバーJ』は、1870年以前の世界では成立しないのだ(現在でも、バトル・バスクやバトル・クルドやバトル・アイヌが成立しないように)。
 だから、「現代とはどういう時代か?」と問われたとき、「バトルフィーバーJが成り立つ時代」と答えれば、おそらくそんなに間違ってはいない。(7/29)

■「近代」とは何か
 「個」から「衆」への展開と「世界史の開始」をメルクマールとして19世紀後半を歴史の切れ目とすると、それ以前の歴史の切れ目は16世紀になる。新大陸発見、宗教改革、ルネサンスの3点セットに、グーテンベルグを重ね合わせると16世紀の切れ目はわかりやすい。印刷術の発明による正確な「地図」と「海図」、俗語で書かれたアジテーション用「パンフレット」、新思想を公布する「本」の出現が、新大陸発見と宗教改革とルネサンスを支える技術的な条件となっていることは、マクルーハンが指摘するまでもなく、19世紀中頃にはヨーロッパでは常識となっていた。新大陸発見と宗教改革は、それぞれ世界史の創始と国民国家システムへと自己展開し、19世紀後半に完成する。この時期を「近世」と呼ぶか「近代」と呼ぶかはともかく、いわゆる「ポストモダン」が言うデタラメな時期区分よりは、歴史の射程をこう定義しておいたほうが見通しが立ちやすい。
 すると、1870年以降、1920年、1945年、1969年、1989年が歴史の切れ目に見えやすいが、「近代」と「現代」を分かつほど徹底的な展開がここに生じたとは到底思えない。2007年現在も、大きな歴史区分としては1870年以降現在まで同じステージにいると見る方がおそらく生産的であり、現在の歴史的ステージは「現代」ではなく「成熟した近代」と呼ぶ方が知的に誠実な態度だ。知的近視眼に陥っている自称ポストモダンは、歴史を区分しすぎだ。いくつ「ポスト」があればいいのか。(7/30)

■「知の制度化」について
 ちなみに、「限界効用説」により古典経済学が近代経済学へと展開したとされるのが1870年代。1870年前後に自然科学と社会科学を問わずあらゆる学問領域で「近代化」が進行したのは、「世界史の開始」と密接な関係を持っている。おそらく、「知の制度化」とでもいうべき事態が必然的に進行した。
 「知の制度化」は、芸術方面にも顕著に見られる。たとえば今クラシックが日本でプチ・ブームになっているが、シロウトが容易に名前を思い浮かべることができる音楽家が活躍したのは、1740年〜1890年の、およそたった150年間に限られる。モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、リスト、ショパン、ワーグナーなど、誰でもいいが、日本人のシロウトが名前を挙げられる音楽家の90%は、この150年の間に活躍しているはずだ。(例外はバッハくらいか。そのバッハにしても、ドイツのナショナリズムが事後的に発見したと見るべき存在ではある)。この期間に集中して音楽的天才が現れたわけではない。「知の制度化」と密接に関連している事態と把握すべきだ。ちなみに「音楽はクラシックしか聴かない」と主張する心性を持った一群の人々がいるが、単に「知の制度化」に無批判に追従してそれをよしとする阿呆であることは間違いない。
 この「知の制度化」は、高等教育の整備もさることながら、初等・中等教育からの接続の問題が大きい。国民国家が確立する過程で、国民教育制度と高等教育を結ぶラインが完成していく。先の音楽に関して、音楽を教える学校というものが誕生し始めるのが19世紀後半であることは、偶然ではない。
 この「知の制度化」は、2007年現在に至っても、崩れるどころか、領域を拡大しながらますます加速度的に進行している。1870年以降、歴史が新しいステージに突入した証拠は、どこにも見いだすことはできない。(7/31)

■「成熟した近代」について
 社会学者の宮台真司は、「現代」という言葉ではなく、「成熟した近代」という言葉を使用している。おそらく「現代」と「近代」の関係に対する歴史的洞察が背後にある。つまり、今現在の歴史的ステージを、基本的には「近代」から別のものに移ったとは考えていないということだ。ただし宮台は、「動機付け」という概念で、「古典近代」と「成熟した近代」を分けている。
 ちなみに、宮台は社会学の中でも「行為論」というサブジャンルからキャリアをスタートさせている。行為論は、デュルケムのように「衆」を「衆」のまま扱うタイプの社会学ではなく、析出された「個」から構成される社会学だ。たとえて言うと、熱力学の「気圧/温度/体積」という「衆」を「衆」のまま扱うメカニズムを、個々の分子の運動から説明する熱分子運動論みたいだ。さらにちなみに熱分子運動論は19世紀後半に「自由」と「確率」の論理を編み出して「量子力学」へと展開していくわけだが、この「自由」と「確率」の論理はむしろ熱分子運動論よりも先に政治学(その中でも国家学と呼ばれる領域)において問題化されていたことは興味深い。
 さて、宮台によれば今の歴史的ステージは「成熟した近代」だが、「成熟していない近代」との違いは、「動機付け」にある。前近代から「近代」を立ち上げるためには大きなエネルギーを必要とする。そのエネルギーを調達するために様々な「動機」を必要とする。日本の場合、明治維新から高度経済成長期まで、「近代」を立ち上げ維持するためには、動機の調達が必要不可欠だった。しかしいったん「近代」が成立してしまったら、もはや動機などなくても「近代」は回る。それが「近代」を「機能分化」した世界と理解する「システム論」の教えだ。そして「機能分化」とは、実のところ「有機体」の成立に他ならない。
 「成熟していない近代」から「成熟した近代」への展開は、まさに人体の成長に当てはめることができる。前近代は受精卵の状態だ。まだ機能分化も何もあったものではない。受精卵は分裂を重ね、機能が分化し、人体の輪郭を形作る。しかし赤ん坊が生まれたばかりでは、まだそれぞれの器官は未熟であり、赤ん坊は自分の器官を自分でコントロールすることができず、外部からの常時的なサポートを必要とする。しかし7歳頃になれば、機能分化は完了し、自分が自分の各器官を支配することができるようになり、外部からのサポートの必要性は低下する。「成熟した近代」とは、外部からのサポートがなくとも、人体が自律している状況を指す。
 さて、ときどき自称ポストモダンが「アイデンティティは胡散霧消した」などと言うことがあるが、おそらく間違っている。事実としては、近代は一貫して「アイデンティティ」を要求する。「アイデンティティ」が成立していなければ、現在の法システム、経済システム、コミュニケーションシステムは、ただの一瞬たりとも回らない。ただし、もしも変化したものがあったとしたら、「アイデンティティを確立するという動機」の有無だ。「成熟していない近代」であったら、近代を維持するためにも「アイデンティティの確立」が自覚的な課題となる。しかし「成熟した近代」であったら、「アイデンティティの確立」を正面切って課題にしなくとも、あたかも各個人にアイデンティティが成立しているかのように振る舞うことが可能となる。なぜなら、各個人の状態が実際はどうであろうとも、今はシステム論的には「近代」なのだから。だから、「アイデンティティが胡散霧消した」という判断は誤りで、正しくは「アイデンティティが成立していると前提して振る舞うが、実態は問わない」だ。「実態を問わない」と「胡散霧消した」では、まるで事態が異なる。そして事実、現在も「アイデンティティ」は成立しているものとして世界は回っている。(8/1)
■「差異」という概念をもてあそぶ愚かさについて
 自称ポストモダンは「差異」という概念をもてあそぶ。
 「差異」という概念自体に問題はない。これは「A=A」という「law of identity(自同律)」に頼らなくとも世界の構想を可能にする概念で、典型的にはソシュールのラングがこれにあたる。これ自体は生産的な概念だと思う。が、この概念が「アイデンティティ」を崩壊させたと言うに及ぶのなら、それは単なる錯誤だ。
 しばしば80年代の「新人類」の行動が「差異化ゲーム」として言及され、これがアイデンティティ崩壊とポストモダンの象徴とされる。勘違いもいいところだろう。たとえば同じ現象を、「差異化ゲーム」ではなく、「細胞分裂」と名付けることも可能だ。「細胞分裂」とは、言うまでもなく「有機体説」の用語だ。そして「細胞分裂」という用語が都合良いのは、まず単に同じ機能の細胞を増殖させるだけでなく、増殖した細胞が「機能分化」していく点にある。「差異化ゲーム」と名付けられた現象は、「細胞分裂」による「機能分化」でも説明できる。そして「細胞分裂」という用語が「差異化ゲーム」という用語よりも都合良いのは、それが「ガン細胞」の生成をも説明する点だ。細胞分裂を制御する構造の異常が「ガン細胞」を生むのは言うまでもない。ある現象を「差異化ゲーム」と呼ぶより、「細胞分裂」「機能分化」「ガン化」など、生物学の用語で現象を記述した方が想像力豊かではなかろうか。たとえば生物学の用語は、新人類世代の「細胞分裂」と「機能分化」だけではなく、官僚制度の「細胞分裂」と「機能分化」と「自己増殖」と「ガン化」をも説明する。官僚制度の記述は「差異」概念では不可能だが、有機体説なら可能だ。
 「差異」という用語は、そもそも論理学において「アイデンティティ」と対になって使用される言葉であり、だから「差異」という用語の使用が「アイデンティティ」も招き寄せる。同じ現象を有機体説の用語に置き換えれば、形而上学的な概念を招かずとも記述が可能となる。
 そして「細胞分裂」と「機能分化」と「自己増殖」と「ガン化」は、ポストモダンではなく、「近代」の特徴だ。要するに、「差異」も「差異化ゲーム」もポストモダンの指標たりえない。(8/2)
■アイデンティティの法則(Law of Identity)が崩れるとしたら
 「A=A」という「law of identity(自同律)」は、「矛盾律」および「排中律」と並ぶ論理学の三大原理だ。このうちの「排中律」に対しては、19世紀後半の現代数学の展開の過程で直観主義が疑義を呈した。「矛盾律」に対しては、19世紀前半のヘーゲル弁証法において別のモデルが提示された(形式論理的には問題にならないとはいえ)。
 では、自同律が崩れたとしたら、その仕事を行ったのは差異の哲学を提唱したドゥルーズだろうか、脱構築のデリダだろうか。いや、おそらく最も有力なのは、ダーウィンだ。
 ダーウィン『種の起源』の発行は1859年。19世紀後半の自然科学・社会科学全体の転回と「知の制度化」の時期と完全に符合する時期に当たる。ちなみに「進化」に関する説はダーウィンが最初に唱えたわけではない。ラマルクはともかく、カントやヘーゲルの著作の中にも「進化」に関する具体的な記述を見ることができるし、スペンサー「社会進化論」は『種の起源』発行以前から唱えられていた。進化論はダーウィン一人が唱えたわけではなく、19世紀後半の科学の展開によって、総合的に説得力を持ったものといえる。
 さて、進化論が「自同律」にとって重要なのは、「種」に「自同律」が成立しないことが明らかになった点だ。
 まずそもそも、この世に存在するありとあらゆる「個体」にアイデンティティが成立しないことは、2500年ほど前から気づかれていた。なぜなら、この世に生まれたものは必ず死ぬからだ。「滅びるもの」に成立する式は、「A→A'」であり、「A=A」ではない。この世に存在する「物体」については、自同律「A=A」が成立するものは何一つない。
 では、「A=A」が成立するものとは、何なのか。プラトンは、これを「イデア」と呼んだ。そして「A=A」である「イデア」を認識することができる「魂」にも「A=A」が成り立っていると考えた。故に、「魂」は滅びない。「A=A」という自同律が成り立つものは、必然的に滅びることがないものだ。(プラトン『パイドン』に詳しく書いてある)。
 キリスト教であれば、この「A=A」が成り立つものを「神」と呼び、「神」が作ったものにも「A=A」が成り立つと考えるだろう。とすれば、滅びてしまう個々の肉体は「神」が作ったものではない。「神」が作ったのは決して滅びないもの、つまり「魂」だ。滅びない「魂」には自同律「A=A」が成り立つが、滅びる「肉体」に適用されているのは変化式「A→A'」だ。
 そしてさらにキリスト教は考える。それぞれの「個体」は「A→A'」だが、「種」には「A=A」が成り立つ。「個体」はそれぞれ個性があって千差万別だが、「種」は一定を保つ。親は滅びるが、その子供が「種」の自同律を守る。「神」が作った「種」には、自同律「A=A」が成立するだろう。
 ダーウィンが破壊したのは、これだ。進化論によって、「神」が作ったはずの「種」に「A=A」が成立しないことが明らかになった。「種」は変化するし、時には滅びる。
 キリスト教が進化論に拒否反応を示したのは、単に「人間の祖先はサル」を否定したいという感情的な理由だけではなく、それが「Law of Identity」という論理学および世界の構成原理の一番の根幹を揺るがすものだったからだろう。「種」に「A=A」が成立しないことを認めてしまったら、次は「魂」の自同律が危険にさらされる番だ。「魂」の自同律の否定は、「魂」が「不死」でないことを明らかにしてしまうだろう。そしてそれは、「人格」が「一つ」であることをも拒否することになる。「アイデンティティ」という概念に対して、19世紀後半に進化論が加えた衝撃と比較したら、「差異」や「脱構築」の影響力はとるにたらない。「差異」も「脱構築」もポストモダンの指標たりえない。進化論に従えば、脱構築するまでもなく、我々には自同律など成り立っていない。
 そしてビーグル号世界一周という「世界史」成立の過程で「進化論」が醸成されたのは、おそらく偶然ではない。(8/3)
■「種」のアイデンティティを保つための「愛」について
 滅ぶべき者の本性は、可能なかぎり、無窮であり不死であることを願うものなのですから。ところがそれはただ生殖によってのみできるのです、生殖とは古い者の代わりに常に他の新しいものを残して行くことだからです。これはまた人が、いずれの生物についてもそれが個体として生き、また同一者であるといっているのと同然であります――例えば人が子供の時から老人に成ってしまうまで、同じ人といわれるようなものなのです。実際彼は自分の内には瞬時も同一要素を保有するようなことがないが、それでもなお終始同じ名で呼ばれている。しかも他方彼は髪も肉も骨も血も、要するに肉体の全体にわたって普段に新しくなるとともに、旧いものを失ってゆくのです。なおまた、これは単に肉体の上だけではなく、心霊の上でも同様であります。気質や性格や意見や慾情や歓楽や悲哀や恐怖で、これらはいずれもどの個人においてもけっして同一不変ではなく、一方では生じ、他方では減ずる。
 (……)このようにして一切の滅ぶべき者は維持されて行くのです。もっともそれは神的なもののように、いつまでも徹頭徹尾同一不変でいる訳ではなくて、むしろ消え去る者も老いゆくものも自分と同種の他の若者を後に残して行くことを意味する。ソクラテスよ、こういう仕方によって滅ぶべき者は不死に与かるのです。その肉体のみならず、その他すべても。もっとも滅びざる者には他の仕方があります。ですからあらゆる生物が生来自分の子孫を大切にすることも別に不思議がるにも及びますまい、不死のためにこそ、どんな者にもこの熱心と愛とが賦与されている訳ですから。
【プラトン『饗宴』岩波文庫版119-120頁】
 「種」にアイデンティティが成立していることは、プラトン以来、つまり2500年くらい前から、「魂の不死」のための前提条件だった。プラトンによれば、「滅ぶべき者」が「不死」を獲得するために子孫を残す。「愛」と「生殖」は、そのために存在するとされる。
 だから、「種」にアイデンティティが成立していないことを宣言した「進化論」は、「魂の死」をも宣言したことになる。キリスト教が「進化論」を受け入れないのは、単に「人間の祖先はサル」を教義的に拒否しているというよりは、おそらく「魂の不死」と「種のアイデンティティ」との密接な関係が基礎にある。
 そもそも「個体のアイデンティティ」は、プラトンの時点で否定されていた。問題にされていたのは常に「種のアイデンティティ」であり「滅びない者のアイデンティティ」だった。
 ちなみに『饗宴』と『パイドン』は、「恋愛」について語ろうと思うなら必読文献だ。「恋愛」と「アイデンティティ」が2500年前から密接な関係にあったことは、「恋愛」を考える上で示唆するものが多い。(8/9)

■『百獣王ゴライオン』全話見終わった
 以下、ゴライオンのネタバレが含まれます。
 『百獣王ゴライオン』は1981年3月〜1982年2月まで放映、全52話。
 高度経済成長後の巨大ロボットアニメにおける有機体的キャラクター配置論を考える上で、そこそこおもしろい素材を提供してくれる。
 ゴライオンというくらいだから五体合体で、有機体キャラ配置は「熱血/ニヒル/チビ/デブ/女」。ガッチャマンとコンバトラーを完全に踏襲している。「チビ」がメガネをかけているのが、『コンバトラー』や『ゴワッパー5』の流れ。
 有機体論的に興味深いのは第47話。非常に重要なエピソードだ。第47話では、「姫」がゴライオンの頭部メカ(ブラックライオン)に乗るエピソードが描かれる。姫が頭部メカに乗った理由は「獅子座同盟の盟主である姫がゴライオンの右足ではみっともない」という政治的な配慮だけであって、それが作中では「秩序」と表現されていた。「秩序」を守るためには、五体合体ロボットの頭部に「盟主」が座らなければならないわけだ。つまりここでは、ロボットの頭部が「機能」からではなく、「盟主は頭」という有機体論的な「意味」から把握されている。ここまで露骨に巨大ロボットを有機体的意味論で解題したエピソードは、他に知らない。
 あと見所は、人肉を食わされる奴隷と、第20話で地球が木っ端微塵に爆発するところと、帝国皇太子のストーカーっぷりと、ストーカーの餌食になって手籠めにされたアミュー姫と、そのツンデレっぷり。(8/14)
■有機体論的物語構成
話というものは、すべてどのような話でも、ちょうど一つの生きもののように、それ自身で独立に自分の一つの身体を持ったものとして組みたてられていなければならない。したがって頭が欠けていてもいけないし、足が欠けていてもいけない。ちゃんと真ん中も端もあって、それらがお互いどうし、また全体との関係において、ぴったりと適合して書かれていなければならないのだ。
【プラトン『パイドロス』岩波文庫版105頁】
 初心者向けに「お話の書き方」の講釈をたれる場合、小説にしてもマンガにしても、樹木の比喩が使われることが多い。ストーリーの中心となる太い幹があり、伏線が枝で、葉が茂り花が咲く、という具合。樹木の比喩も有機体論なわけだが、プラトンになるとストレートに人体で来る。プラトンの国家論が人体の比喩を使う有機体説であることは有名だが、物語論も有機体説というのは興味深い事実。(8/15)

■プラトン読了
 プラトンを読み終わった、と言っても岩波文庫で簡単に手に入る分だけですが。『法律』とか、絶版でプレミアついてるようなのは再版されてから改めて読むことにする。ともかく、やっぱり高校生の時に読んだときとは、ずいぶん受ける印象が違う。今回は「ほんとうのわたし」とか「有機体説」に焦点を絞ったけど、「恋愛」と「マニア」など他にも興味深いテーマが多かった。
 そんなわけでクイズ。以下のうち、プラトンの作品ではないものを一つ選べ。(8/16)
  1. パイドン
  2. パイドロス
  3. パイメガ
  4. パルメニデス

■ダルタニアス全話見終わった
 以下、『未来ロボダルタニアス』のネタバレがあります。

 『ダルタニアス』は1979年〜80年にかけて放映、全47話。
 胸にライオンというロボットデザインの先駆けで、合体シーンなど非常にカッコいい。EDの冒頭はダンスアニメで、『涼宮ハルヒの憂鬱』アニメ版より30年早い。OPの曲(小林亜星作曲)は、甲子園でおなじみの「栄冠は君に輝く」にたいへんよく似ている。
 シリーズ構成が非常に秀逸で、前半から後半への急転回のカタルシスは並ではない。長浜監督の力量を感じる。塩山紀生作画監督の回は、非常に良い。

 で、有機体論的な分析。三体合体メカのうち、パイロットが2人で、胴体部がライオンというのは、非常にユニーク。ただしダルタニアスにおいて有機体をなしているのは、主人公と一家のように過ごす孤児の集団だ。孤児の構成は7人で、「熱血/ニヒル/女/デブ/博士メガネ/チビ男/チビ女」。『てんとう虫の歌』の構成を彷彿とさせる。実際にダルタニアス第25話までは、「てんとう虫の歌」のようなエピソードが展開される。チビ女が誘拐されたりデブのミスでピンチに陥るなど、有機体的に興味深いエピソードが多い。

 最後に一言付け加えるならば、潘恵子の声がエロい。(8/25)




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